戦争遺跡・戦争の記憶

2009年12月 1日 (火)

旭橋に貼られた「鎮護」の札

旭川市内中心部、石狩川に架かっている「旭橋」。昭和7年に完成し、かつて旧陸軍第七師団の兵士たちが軍靴を鳴らして出兵していった当時を知る貴重な戦争遺産であり、今なお現役の橋として旭川市民の日常を支えています。今回、旭橋の塗装大工事が行われ、これまで重ね塗りされてきたペンキがすべて剥がされ、新たに塗りなおされました。

その際、ペンキを全部剥がしてみたら橋桁の常盤通側に「鎮護」の札(銅板)が新たに発見されたそうです。

Pc010002 ■あさひかわ新聞

上の写真は2009年12月1日付あさひかわ新聞の記事ですが、第一報は11月中旬発行の雑誌『北海道経済』で知りました。現・旭橋が完成した昭和7年当時、北海道護国神社は無く、上川神社でははっきりわからないと『北海道経済』の記事でしたが、その後判明したらしく、「あさひかわ新聞」では「上川神社が取り付けたものであることが、橋渡式の祝詞の記録から判明」したと書かれています。

せっかくなのでぜひ実物を見たい、と某日早朝にでかけてきました。まず住宅地図の現地周辺をご覧ください。この地図の記号を使って説明します。

Pc010003 ■住宅地図より

地図を上側に国道40号線をすすむと比布方面、下側がロータリーを経て旭川駅方面です。「鎮護」の札が見つかったのは最初②のあたりかと思ったのですが、『北海道経済』の記事を正確に読むと①であることがわかりました。

Sn3d0934 ■朝日浴びる旭橋

上の写真左側の橋桁に黒いプレートが貼ってあります。まずはここから拝見しました。

Sn3d0926 ■「旭橋概要」

これには旭橋の基本データが記録されていました。昭和4年11月に着工して昭和7年11月に完成。実に3年がかりの大工事だったのですね。後で見た旭橋について説明した看板によればこの場所には4度架橋しているそうで、3年かかってつくったこの橋が、戦争もくぐり抜け77年後の今まで残るとはよほど頑丈に作ったのでしょう。

北海道開発局旭川道路事務所のサイトに詳しい歴史が書かれていますが、総工費約104万円、現在の価格に換算すれば約28億円もの費用がかかったそうです。

■北海道開発局旭川道路事務所「旭橋」
http://www.as.hkd.mlit.go.jp/road1/asdj/asahibashi/index.html

このサイトの「旭橋のあゆみ」はなかなか面白いです。

さて、当の「鎮護」の札はこの黒いプレートの鉄骨を挟んで裏側、地図①の場所に②方向に向いて貼られていました。

Sn3d0929 ■「鎮護」札

正確には旧字体の「鎮」ですが、ここではご容赦を。

「あさひかわ新聞」の記事では「橋建設の安全と、第七師団がある関係から、北の脅威から橋を守ることを願ったものではないか」と関係者の話を紹介していますが、それならば地図②の部分に貼ってもよかったのではないか、と思います。陸上自衛隊旭川駐屯地に建つ北鎮記念館の平塚清隆館長(自衛官)は「北からの護りとともに、出征する兵士への安全祈願の意味もあったのでは」と非公式ながら見解を述べられていました。それは大いにあり得ることと思いますが、それでも①であることの説明力は不足しています。なぜ常盤通側だったのでしょうか?

ちなみにこの「鎮護」札、縦18センチ、横9センチ、厚さ1ミリの銅板だそうです。同じく「あさひかわ新聞」の関係者の話では「旭橋は完成後、ほぼ10年おきに塗り替えられてきました。多分、2回目の塗り替えの時、間違って札の上から塗ってしまったのでしょう」と推察しています。昭和7年に完成して、1回目の塗り替えが昭和17年ごろ、2回目が昭和27年ごろだと推定すると、戦後の混乱期のことでもありますしそういう可能性もあるかも、くらいには思いますが何ともいえませんね。意図的に塗りこんだ、という説はありえないでしょうか。そもそも構造上、なぜこんなにも目立たない場所に貼ってあるのだろう、と思いました。ですから逆に目立たなくさせたい。北方からの何か恐ろしいものから街を護る最後の砦として「隠れ守護札」のように最初から塗りこまれていたという可能性はありませんか?こちらも何の根拠も無い推測に過ぎません。

Sn3d0931 ■側面のプレート

上で紹介した黒いプレートや「鎮護」札の側面には「昭和六年 汽車製造株式会社 製作」というプレートがありました。すこーしだけ調べてみたら、汽車製造株式会社は明治29年から昭和47年まで存在した文字通り機関車等の製造会社でした。その後は川崎重工業に吸収されて消滅していますが、現在川崎重工は軍事産業として多くの軍事関係品を生産しており、例えば旭川駐屯地第2飛行隊も所有するヘリコプターのOH-6も生産しており、旭橋の上を飛んでいます。

橋の建設は早くから手がけていたようで1912年ごろ(大正初期)から初期の製作記録があり、旭橋がつくられた1930年代あたりは大量の橋をつくっています。戦後は1959年とかそういう時期まで。ですから汽車製造と共に橋梁製作も事業の柱の一つとしてあったのでしょうね。ちょっと調べただけですからよくわかりませんが汽車製造株式会社製作のもので全国で40数例の橋が現在も架かっており、関西が多いのですが例えば東京の隅田川にかかっている駒形橋という橋が同じ汽車製造株式会社の製品でした。昭和2年に製作されたものです。

A50031 ■駒形橋

A5003 ■駒形橋一般図

さて話を旭橋に戻しまして、「北海道遺産」にも指定されたこの旭橋ですが、昭和31年までは路面電車の軌道が敷かれ、旧師団のさらに向こう側まで路面電車が通っていたそうです。そのため片側一車線の車両通行部分以外に電気軌道用のスペースがあって、現在だと片側二車線には狭いけど一車線では微妙に広くて、時々車両が並行して走ったりしていますね。

Sn3d0935 ■朝日に映える旭橋

そんなことを考えながら記録しているうちに旭橋にオレンジ色の朝日があたり美しい全景が目に飛び込んできました。曇り空が玉に傷ですが、塗装工事を終えてすっきりした旭橋です。今後も情報にはアンテナをたてていきます。

■北海道新聞ウェブの「鎮護」札、再設置記事
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/201838.html

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2009年10月24日 (土)

『花はどこへいった』旭川上映会に300名

先日告知していた映画『花はどこへいった』上映会と坂田雅子監督のトークショーが23日、旭川公会堂で行われ、とりわけ若い世代の観客中心に300名の市民が駆けつけました。

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会場は本当に若い人の姿が目立ちました。制服を着た高校生たち、20代の勤労者。「普段、こういう自主上映で見かけない顔が目立ってた」などの声。それは9月からの短期間で一回上映で300人という素晴らしい成果を実現した実行委員会の努力の結果かもしれません。この映画をどういう人に見てほしいか、それはなぜか。上映会に対する自問自答の結果なのかもしれません。

映画はベトナムで世代を超えて続く枯葉剤被害の実相を捉えていました。それも被害だけでなく、障がいとともに生きてゆく子ども達人々の姿を、その家族との愛ある姿とともに取材していました。枯葉剤によっても貧困によっても断ち切れない家族の絆の深さ、いまの日本にそれがあるだろうか、いやあってほしいと願いながら見ました。

これら枯葉剤による国家犯罪ともいうべき戦争犯罪は、加害者であったアメリカは加害責任を認めていません。枯葉剤被害と障がいの因果関係を認めていません。「枯葉剤はアメリカ兵を守るものであり、ベトナム人を傷つける目的ではないので責任は無い」とアメリカの裁判所は判示したそうです。それはいったいどういう法理論なのでしょうか。理解に苦しみます。

映画終了後、坂田雅子監督が登壇し、映画製作に関わる思いをお聞きしました。

Sn3d0785_2 ■坂田雅子監督

坂田監督はこの映画をつくろうと考えたきっかけから、「素人」であった監督がいかに手法を身につけたか、ベトナムを訪ねようとおもったきっかけなど話してくれました。「エージェント・オレンジ」と呼ばれる枯葉剤がベトナムの人々だけでなく、アメリカ兵をも蝕んでいること、一人一人がそれを知った今、どう動くべきなのか等々。そして最後に、「日本が世界に誇るべきなのは、車でもSO●Yでもない、平和憲法なのです」と静かに、そしてとても堂々と語られたときには思わず心の中で拍手しました。戦争そのものをやめよう、と。戦う人も、そこで生きる人も傷つけ、地球を破壊する戦争そのものをやめるべき、だと。

Sn3d0789 ■質問するAさん(右)

監督のトークショーの後に、実行委員会のAさん(旭川上映会はAさんの熱意で実現した!)が登壇して簡単な質疑応答がありました。後で聞いたら質疑応答をやることも質問項目も「とっさのアドリブだったんです」って!すごい度胸ですよ、Aさん。見習いたい。

終演後、300人の観客は書籍・パンフ・DVDコーナーに殺到しました。

Sn3d0793 ■会場ロビー

用意した映画パンフレットやDVD、坂田監督の著書は飛ぶように売れました。監督は希望するすべての人に丁寧にサインしてくださいました。

会場で呼びかけられた枯葉剤被害者支援の募金は10万4千円余が集り、監督によれば東京の大きなホールの上映会以外では一番多いのではないか、とのことでした。高校生たちも、一人一人が財布を握り締め、募金箱に気持ちを託して会場を後にしていました。

坂田監督は引き続きこれらの問題に目を向け、追いかけてゆきたいと話していました。監督の次回作に大いに期待したいと思います。

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2009年10月16日 (金)

10月23日「花はどこへいった」シネマ&トークショー

久々の更新となりました。この間、さまざまなことがありましたね。8月末の総選挙では自民中心→民主中心へと政権が交代しました。基本的な支配構造は変わっていませんから、米軍との関わり、自衛隊政策も大きくは変わらないでしょうが、自民党政権時代のような全て黒いベールの向こう側に隠す、ということは少なくともできなくなると期待しています。

さて、当面、書き溜めていた記事(とくに記事更新していなかった間も定例の当会例会はやってましたので、その報告等)を少しずつ書きながら、再び週一ペースで更新してまいりたいと思います。まずは映画の告知から。

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映画『花はどこへいった』シネマ&トークショーが10月23日(金)午後6時開場、午後6時30分上映で開かれます。会場は旭川市公会堂(旭川市常磐公園内)。

Photo

映画チラシには「ベトナム戦争のことを知っていますか」と大書されています。当日来旭される坂田雅子監督は夫であり写真家のグレッグ・デイビス氏の死をきっかけに、氏がベトナム従軍中浴びた枯葉剤について映画製作を決意されたそうです。

ベトナムを訪れた坂田監督が目にしたものは、戦後30年を経た今もなおダイオキシンを含んだ枯葉剤が子どもたちに「がん」や「生まれながらの障害」を起こさせ、大地を蝕み続けている現実でした。

映画は亡き夫の鎮魂と共に、受難を「引き受けた」ベトナムの人々の家族愛と平和への思いを描き、戦争や枯葉剤被害の実態に静かに迫ります。

上映後、坂田雅子監督のトークショーが行われます。

上映と監督の招聘に奔走されたのは旭川市内で働く一人の若い女性だそうで、その女性が高校時代の修学旅行で訪れたベトナムで戦禍の実相を知り衝撃をうけられ、いつか自分にできることをしたい、との思いを持ち続けられたそうです。今回、その女性の熱意をうけて監督の来旭となりました。

■とき:10月23日(金)午後6時開場・6時30分上映
■ところ:旭川市公会堂
■入場料:大人前売1000円/大人当日1300円/学生当日のみ800円
■取扱所:富貴堂各店・こども富貴堂・市民劇場・花みずき・朝日新聞サービスセンター・舞ふれんど・旭川青年大学・旭川平和委員会青年部・他
■問合せ先:電話0166-60-1616(のだけ)

ぜひ足をお運びください。旭川平和委員会青年部も上映を応援しています。

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2009年7月28日 (火)

2009年7月20日、日韓共同報告会に130名

2009年7月20日、旭川に隣接する東川町の町農村環境改善センター・大ホールにて「忠別川周辺地域の朝鮮人強制連行・強制労働―日韓共同報告会」が開かれ、会場いっぱい130名の参加がありました。主催は「江卸発電所・忠別川遊水池 朝鮮人強制連行の歴史を掘る会」(以下、掘る会)。地元、東川町と東神楽町が町として後援し、調査に協力しました。

P7200090 ■会場全体の様子

Sn3d0466 ■北海道新聞から

この地域では中国人強制連行については慰霊碑(中国人強制連行事件殉難烈士慰霊碑:東川町東14号共同墓地)も建てられ、毎年7月7日に慰霊祭が行われる(上の北海道新聞記事参照)一方、朝鮮人強制連行については公式には「未確認」の段階とのこと。よって慰霊碑の建立などは今後の課題になっています。

P7200063 ■近藤さん

P7200061 ■塚田さん

この日は「掘る会」代表の近藤伸生さんが司会を務められ、最初に3月に行われた訪韓聞き取り調査の報告が「掘る会」事務局長の塚田タカヤさんからされました。映像も交えながら、現地で行われたことの生々しい証言が紹介され、特に「(高給を得られる、と)騙されて連れてこられた」とか「無理やり」など本人の意思とは別に日本まで連れてこられたことの証言。また、厳しい労働実態の一方で、文句を言わずよく働いたものだけに旭川で休みをとる権利が与えられるなど、労働者「管理」の実情が語られました。それらの工事は地崎組や荒井組など、いまも残る企業が受注していたことも明らかになっています。

P7200065 ■鶴間さん

次いで、この間の「掘る会」の活動でわかったことを鶴間松彦さんから報告されました。ここでは特に、逃亡した朝鮮人労働者の「給与」が法務局に供託されている事実などが明らかにされ、驚きました。これらのデータは個人情報は黒塗りされていますので、今後政府間の交渉により解明がすすむものと思われます。

韓国側からは韓国政府・日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会第3課のメンバー6名が来日。大方の予想(?)を覆して、若い女性が過半数を占める若き調査団でした。

P7200068 ■許さん

P7200078 ■李さんと尹さん

韓国側報告の冒頭は第3課長の許光茂(ホ・グァンム)さんが同委員会の沿革を含めた経過、組織内容、業務概要や調査の進行状態など全体像を報告。次いで、尹智炫(ユン・ジヒョン)さんと李宣姈(イ・ソンヨン)さんのお二人が「上川地方及び旭川市の朝鮮人強制動員の実態」と題して詳細な報告をされました。これによれば上川・旭川で5ヵ所の事業場に強制動員がなされ、実数は不明ながら少なくとも3000人以上が動員されたのではないか、とのことです。今回「掘る会」が様々調べられた東川町及び東神楽町以外でも旭川市の「旭川飛行場」や「東旭川上遊水池」「東旭川下遊水池」などへ動員されていたことが証言などからわかっているそうで、現在裏付け調査が求められています。

「旭川飛行場」といえば想起するのは陸上自衛隊旭川駐屯地に斜めに走る「旭川飛行場」。これがいつ建設されたのかが問題となるのですが、調べたところ昭和13年9月に民間用(民生用?)として着工開始、昭和18年6月21日に(軍用に?)転用工事開始し、昭和20年4月に完成しています。しかしながら、これらの工事がどのように行われたか?については詳しい史料が残されていません。ウェブ上を探すと「愛国飛行場」として建設され、その作業には「三浦綾子が女子青年団の指導員として動員されていた」との記述が確認できますが、その元となる史料は明らかではありません。ですが年代的には符合しますし、戦前のこの地域の飛行場とは愛国飛行場のみとのことですので動員されたのは明らかだと思われます。今後の調査に期待されます。なお、陸上自衛隊北鎮記念館にも問い合わせましたが、愛国飛行場に関連する史料は無い、とのことでした。その際、いくつかアドバイスをいただきました。この場で、対応いただいたH准尉さんにお礼申し上げます。

これら日韓の調査は今が「スタート」です。地域に埋もれている証言や史料を掘り起こし、この地域で何が行われたのか?を事実に基づいて明らかにし、犠牲者の足跡を明らかにし、お詫びすべきをお詫びし、日韓友好連帯増進に寄与できればと考えます。ブログ読者の方でも、何かご存知の方か又は知っておられそうな方を紹介いただける場合は当会青年部までメールでご連絡ください。

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2009年7月14日 (火)

博物館学の研究者と見学する北鎮記念館

7月12日(日)、当会青年部が呼びかけて「博物館学の研究者と見学する北鎮記念館」を実施し、北鎮記念館の展示物に関心をもつ人など7名が参加しました。これは予てより付き合いのある静岡県立大学国際関係学部の藤巻光浩准教授が来旭され、北鎮記念館を見学しに行くとの話を受けて呼びかけたもの。当会の若いメンバーと、歴史教育者協議会旭川支部のメンバーらが集りました。

P7120001 ■案内要員に質問する藤巻氏

北鎮記念館リニューアル後も一度見学している藤巻氏は全体を2時間くらいかけてじっくりと見学。他のメンバーも各々見学し、わからないことがあると説明の広報官(自衛官)や平塚清隆館長に質問。

リニューアル前の北鎮記念館と比べ「戦死した軍人の(戦死=美徳かのように書かれた)遺書など、あまりに軍国主義賛美な展示は少なくなっており全体として整理されている」と言いつつ、全体として郷土資料館的な印象が濃かった雑然と寄贈品を並べている旧館と比べ、言葉を精査し展示をすっきりとしつつも旧第七師団の存在をクローズアップさせようという狙いが鮮明な新館展示に残念そうな藤巻氏。

「博物館学の視点からすれば、展示スペースの冒頭に何を持ってくるかはコンセプトを決める」という藤巻氏。旧館は「国見の図」が掲げられていた同所に、いまは北海道開拓(侵略)の歴史案内ボードがあることに「どういう狙いがあるかわからない」と藤巻氏。山田が「むしろ狙いなど無く、単に時系列にしただけなのでは?」と述べると「そうかもしれない…」と。

また新展示として下記の写真が展示されていました。

P7120081 ■写真

P7120082_2  ■説明文

このように真偽が明らかでない資料を「参考資料」と展示冒頭に掲げてしまうあたりは、「そもそも北鎮記念館が博物館でなく自衛隊PR施設であることの証し」だと切り捨てた藤巻氏。山田もその通りだと思います。何の意図があって、何の関わりがあって掲げているのでしょうか?

また今回、新たに設置されたらしき(と山田が主観的に感じた)展示物がいくつかありました。まずは旧師団の全体模型に掲げられた戦前の写真。

P7120074

P7120077

P7120076

上記の他にも数枚ありますが、ご覧のとおり、とりわけ招魂祭にかかわるものが多いことが気にかかりました。旧軍のみならず、自衛隊もが護国神社との関わりを深めている証しでしょうか?

一緒に見学していた女子学生Aさんは「北鎮記念館は2回目?か3回目くらい」と述べつつ、「『日支事変』とか『ノモンハン事件』とか、それぞれの事変・事件で第七師団が何をしたかは書いてあるけれど、その事変・事件がどういうことが起きたのか?どういう性格の事変・事件だったのか?背景には何があったのか?については全くわからない」と述べていました。この疑問には退職高校教員のB氏が「その通り。教科書を前提にしているかといえば、通常ここらで使われている教科書には記載されていない事柄もある。用語だって独特の使いまわしで、教科書との整合性も問われる。子どもは呼称が違えばわからないかもしれない」と感想を言っておられたのが印象的でした。

また上記Aさんは「沖縄戦で亡くなった北海道の兵士は沖縄を除く全国一多いのに、この資料館に展示品が一点しかないことに遺族は納得しているのだろうか?」と疑問を提示していました。山田から「広報陸曹の説明では、ここは旧第七師団の展示コーナーなので、再編成された別の師団等の展示は主目的ではない、ということらしい」と以前受けた説明を紹介すると、納得いかない様子でした。それはその通りで、「旧題七師団のみ」などという説明は詭弁に過ぎず、もし沖縄戦関係の寄贈品が無いのだとしたら寄贈呼びかけをするべきではないかと思います。

さらに藤巻氏は「屯田兵から第七師団創設の間には制度的にも大きな隔たりがあるにもかかわらず、そこが一連の流れとして描かれている。その意味では第七師団創設のあたりの展示は詳細な関連資料がなく、ここに歴史の錬金術があるとも言える」と述べ、錬金術の最たるものが「国見の図」であろう、と指摘しました。過去の一出来事を「国見」という言葉で飾り立て、あくまでも天皇制国家が旭川の礎を築いたのだと宣伝するプロパガンダであると。「国見の図」は昭和17年に書かれており、まさに時代背景的には合致します。

また「アイヌについての記述が少なすぎる」とし、和人の視点からしか描かれていない偏った「屯田兵史観」はアイヌ民族を先住民族とした国会決議とも相容れず、少なくとも第七師団に関わった事柄としても「沖縄戦に参加させられたアイヌ兵士のことなど展示すべき」と述べました。

1階に降りて、警察予備隊~自衛隊のコーナーは明らかにイラク関連の展示比重が増していました。

P7120083 ■イラク派遣装備モデル展示

P7120085 ■イラク派遣装備品

P7120093 ■イラクのお金

当日は北鎮記念館と民間のプラモデル愛好者らによる『北のモデラーズ大作品展』の初日であり、1階ホールでは展示者らがガヤガヤと準備し、展示スペースは多目的学習スペースや図書スペース、上記自衛隊コーナーまで広がっていました。

P7120098 ■旧日本軍の飛行機たち

P7120100 ■米軍の飛行機たち

この主催は「クラブ『ひこうせん』と有志メンバー」となっており、チラシを見れば市内4つの模型関連店舗が地図で紹介されています。期間中は7月18日(土)に「北のモデラーズコンテスト」、26日(日)には「夏休み親子模型教室」(受付終了)などが計画されているようです。

詳細は今後記事にしたいと思いますが、この作品展が紹介された雑誌『メディアあさひかわ』2009年7月号の記事などを読んでも、「なぜ北鎮記念館でこの作品展か」という疑問に答えるような記述はなく、単に北鎮記念館側の「人を呼べるイベントを」との意図と、クラブひこうせん側の「念願の『地元での作品展』を」との願いが合致しただけのこと。結果的にはモデルを餌に子ども達や若い世代(もちろん、昔作ったであろうオジサン世代)を集客し、官民合作の自衛隊募集大作戦を敢行しようという作戦に他ならない、と感じています。

もちろん、藤巻氏も山田も子どもの頃は戦艦や戦闘機、ガンダムやヤマトなどのプラモデルを散々つくった元モデラー。クラブひこうせん側の「自分の作品を見て欲しい」との願いは理解できます。ならばこそ、苦労してでも別に会場を確保して集客すればよいのです。むしろ北鎮記念館などより少なくともサイパルの方が適しています。それを安易に北鎮記念館の提案にのってしまった。残念でなりません。

さらに一言すれば、このような展示会・写真展をしようというときに、有志でコツコツ活動している団体の会場費負担が意外と重い負担になっていることも指摘しておきたいのです。旭川市は継続的に行われる文化活動への支援をすべきです。

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2009年7月 2日 (木)

東川町周辺地域の朝鮮人強制連行・強制労働:日韓共同報告会

「江卸発電所・忠別川遊水池 朝鮮人強制連行の歴史を掘る会」から案内をいただきました。韓国政府機関のいわゆる「真相糾明委員会」との日韓共同報告会が開かれます。

東川町と旭川市にまたがる地域でも朝鮮人強制連行があったということが、「歴史を掘る会」による聞き取り調査などで明らかになってきています。それらの、いまわかっている全容を把握し、さらなる実態解明の糸口が見出せればよいと思います。

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7月20日(月・休)午後3時~5時

東川町農村環境改善センター・大ホール

資料代として500円(高校生以下無料)

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ぜひ多くの市民の参加を呼びかけます。

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2008年9月27日 (土)

「北鎮記念館と旧陸軍遺跡めぐり」同行記 第2回:旧軍遺構めぐり編

第1回に引き続き、第2回:旧軍遺構めぐり編をお届けします。

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北鎮記念館では時間を決めて各自見学しました。その間に希望する人は向かいの北海道護国神社の石碑等を見学して来てください、と呼びかけました。石碑関係の解説は配布した解説小冊子に詳しく記載されていたこともありそうしたのですが、見学に言った人は「石碑がどこにあるかわからなかった」と…。そんな難しい境内ではないのですが…。

お昼休みをとった後、再びバスに乗り込み私がマイクを持ち説明しながら移動します。

●国立道北病院前・ホクレンショップ北部店前

軍隊が永く一つところに駐屯することを「衛戍」(えいじゅ)といい、現在の旭川市春光付近全域は旧師団の旭川衛戍地でした。ここには何でもそろっており、現在の国立道北病院は旧陸軍病院「旭川衛戍病院」でありました。道北病院正門内側に元衛生兵の団体により最近立てられた「衛戍病院跡地」の石碑が、正面入口左側に「鴎外立ち寄り地」のプレートがあります。軍医であり陸軍医務局長であった森林太郎(森鴎外)が視察した場所でした。

その隣、ホクレンショップ北部店の場所には「衛戍監獄」がありました。ここには軍法会議で懲役刑が確定した囚人を収監していたそうです。

ちなみにこの説明をしているとき、参加していたご老人一人が「おれ、衛生兵だったからここで働いていたよ」と道北病院を指差しました。驚きです。詳しい話を是非、とお願いしましたが恥ずかしがって笑うだけ。次の機会はぜひ、と思います。

●騎兵・捜索第七連隊碑・旭川電気軌道施設

ここら一体は騎兵第七連隊はじめ砲兵第七連隊、輜重第七大隊など特科が並んでいた場所。どの部隊でも軍馬が重用された部隊でした。豪雪寒冷地帯である旭川では冬期間軍馬の運動不足、訓練不足が問題となります。その解決のために多数作られたのが現在は旭川電気軌道(バス会社)の修理工場となっている「覆馬場」(おおいばば)です。

P9230058 ■覆馬場全景

P9230054 ■文化財の登録票

P9230051 ■市教委の説明プレート

トタンの屋根は戦後葺き替えられたものでしょうけどレンガ造りの建物は戦前のままです。大倉組(大成建設)によって突貫工事でつくられた衛戍地とはいえ、なかなか立派でしっかりした建物です。覆馬場は現存する唯一のもの。内部をもっと見学したかったのですが、事前申込をしていなかったので、それはまた今度。

P9230053

P9230052

覆馬場のすぐ横に建つ「騎兵・捜索第七連隊跡碑」。 戦友会の建立です。失った仲間の記憶を未来に残す存在として意味があるのかもしれないと思います。「偉勲」には同意できないものの、必要以上の顕彰がなされていない碑文に安堵感も。

P9230056■これも戦前の建物

覆馬場を見学していると「旧師団にいた」という男性が「あそこの木造の建物も戦前からあるんだよ」と教えてくれました。この建物は、砲撃演習などで使う砲弾の信管セット直前までの状態に完成させる作業場だった、と話してくれました。よってこのような作業場では静電気の発生はご法度のため、この建物の床には銅版が敷かれ、あちこちにアースが地面まで伸びていたとのこと。

●旭川市彫刻美術館・春光園

P9230062 

P9230060

P9230061

旧将校クラブの旭川偕行社跡。現在は旭川市彫刻美術館となっています。国の重要文化財です。ここには天皇らが宿泊した貴賓室(開かずの部屋)もあったとか。師団建設を一手に受注した大倉組が「寄贈」したといいます。

この偕行社。将校の共済組織として全国にありましたが、旭川では将校子弟教育のための私立学校「北鎮学校」を運営していました。現在の市立北鎮小学校です。戦前には珍しく男女共学の少人数学級ですすんだ教育が実施されていたとか。

ちなみに偕行社。戦後は軍籍を離れた陸軍将校の「英霊奉賛」「戦死者救済」「親睦」組織として財団法人として存在しているのですが、最近元自衛官にも門戸を広げ、佐藤正久参院議員の選挙戦では後援組織を自衛隊内に構築するために役割を担ったといいます。

P9230065

P9230064

緑地帯で市民の憩いの地である春光園の一角に「忠」の碑があります。参加した男性は「誰への『忠』なのか?」と言っておられましたが、砲兵第七連隊の「光輝ある戦史を遺す」(プレートから)ために設置されたとし、日露戦争戦没者を顕彰し、もって以後の砲兵部隊の士気高揚を図ったらしいです。

この場所は戦前、偕行社の敷地の一角にあった神社の場所で、そのことと関係があってか知らないですが昭和47年に移転してきました。

●春光台配水所

旭川市と鷹栖町のあいだの高台・春光台に登ってきました。春光台公園の駐車場にバスを停めると、「ここら一帯は演習場だったんだよ。春光台のはじっこまでずっと。演習が終わるとさ、軍歌を歌いながら兵舎に戻ったものだ」と男性参加者。

この公園のはじっこ、旭川実業高校との境目にあるのが現在の旭川市水道局「春光台配水所」、戦前の軍用水道の浄水・配水施設でした。

P7280008 ■外観

P7280027 ■説明板

P7280002 ■水を抜いた内部

この日は内部見学を断られたため、上記の写真は以前調査したときのものですが。大正3年に完成したレンガ700万個を用いての「覆蓋付緩速濾過池」です。総工費45万円、現在の貨幣価値に直すと90億円だとか。全国でも珍しいもので、近代水道百選に選ばれています。

100年近く前に作られた施設ですが、いまも現役のまま配水池として使われています(浄水はしていません)。この戦前の技術の高さに参加者から賞賛の声があがりました。

石狩川から取水した水を春光の旧4区からポンプで揚げたのですが、ポンプ場が取り壊されるとき見に行ったという男性によれば「あれはポンプ場だが、トーチカみたいで銃口も上下・左右にあった」と軍用水道の重要性に着目していました。

P9230070

配水所の敷地のはじっこには水神様が祭られており、隣接する公園内には「軍用水道碑」が建っていました。この説明文は漢文でじっくり読まねばわからないので、ここでは略。

●官舎地帯

帰りに、バスの運転手さんが「旧春光6区のあたりに戦前の官舎がある」というので案内してもらいました。道北病院のすぐ近くの住宅街にポツンと木造の古い住居がありました。旧第七師団在籍者の方々に聞くと「そうだ、間違いない。下士官官舎だ」と教えてくれました。他にも数ヶ所あるというのでバスでまわると、旧5区との境目付近の旧6区にもう1軒。その裏手にはリフォームしてしまっていましたが基礎はレンガ造りの建物が2軒。旧軍施設はほとんど壊されてしまった、と思っていましたが、まだまだ残されていることがわかりました。この場所は現在も住んでいる人がいるので写真は控えました。

ついでに翌々日、旧1-3区方面もまわってみたら旧2区のエリアで1軒、官舎と思われる木造住宅を発見。合計3軒は戦前のまま残されているようです。

●まとめにかえて

今回のツアーは、直前に北海道新聞旭川版で報道され、戦前の軍施設を懐かしむ方々の参加があったためむしろ貴重な話をたくさん聞けました。旭川に住む私たちが、現在の立場を超えて旧軍の遺構を掘り起こし、証言を残していく活動をすすめなければならないと思いました。元軍人の方々にお話を聞く場を設定できれば、と思いました。いまお聞きしなければ、後世に伝えられないかもしれない。私たちの世代の責任を感じます。

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2008年9月24日 (水)

「北鎮記念館と旧陸軍遺跡めぐり」同行記 第1回:北鎮記念館編

あさひかわ南9条の会(西元有子代表)主催の「北鎮記念館と旧陸軍遺跡めぐり」が9月23日開かれ、30数名の9条の会メンバーや市民らが参加しました。当会青年部から由井久志青年部長が説明員として同行しましたので、以下2回(第1回:北鎮記念館編、第2回:遺構めぐり編)に分けて由井から報告させていただきます。

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もともと説明員などという役割を果たせる器では無く、ただ本来説明員予定だった歴史教育者協議会のKさんが用事で旭川を不在にされるため、Kさんの指名により私が同行させていただくことになりました。当日は生憎の雨にもかかわらず借り上げたマイクロバスに続々と人が集っていました。ほとんどが60代以上、だいたい70代は超えておられると見受けられる高齢の方々。いわば人生の大先輩ばかりです。若輩者が何を説明すれば良いのか、とプレッシャーをうけつつ、自然体で逆に昔の旭川を学ばせて頂こうと同行しました。

順路は、神楽公民館前出発(10:00)⇒自衛隊の北鎮記念館(北海道護国神社を含む)⇒ラパーク長崎屋で昼食⇒国立道北病院前⇒ホクレンショップ北部店前⇒旭川電気軌道バス駐車場(騎兵第七連隊碑)⇒第七師団司令部門柱前⇒旭川彫刻美術館(春光園)⇒春光台公園(春光台配水所)⇒旧官舎地域⇒北の散歩道前神楽公民館前到着(15:00)という、なかなか長時間のフィールドワークです。上記順路紹介では現在の場所名を記しましたが、それぞれの場所に何があるかを含め以下にご紹介していきたいと思います。

なお南9条の会がつけられたタイトルが「北鎮記念館と旧陸軍遺跡めぐり」となっていますが、「遺跡」というより「遺構」めぐりと題したほうが適切かな?とは思いました。

●北鎮記念館(北海道護国神社を含む)

ここでは冒頭、簡単に自己紹介した上で「私のような30代の若輩が説明とは申し訳なく、みなさんが詳しいことがたくさんあると思いますので、どうかお教えください」と申しあげました。そして館正面入口で「北鎮記念館の果たしている役割」(広報施設であるということ)、「旧館との違い」(入館手続きの簡易化、その結果入館者3・5倍化)、「子どもが多数見学していること」(若年層勧誘につながっていることの危惧)などを説明しました。

北鎮記念館のなかでは特に説明するということはせず、一緒に見ていた何人かの方と話をしながら、私自身以前来館して以来の変化を気にかけながら見学しました。

P9230004 ■「師団歴史」にて右が平塚氏

いつもの事ながら、広報官のみなさんが周囲をウロウロして説明していただきありがたいことです。ましてや今回、平塚清隆館長直々にご説明をいただきまして、web経由ではございますがお礼申しあげます。

北鎮記念館については当ブログで紹介するには分量が多すぎるため、今回新たな展示物や、とくに気になったところを中心に抽出して紹介します。

P9230003■今月の掛け軸

P9230002 ■同説明文

「今月の掛け軸」というコーナーが1階左側にできていました。9月は渡辺錠太郎元師団長の書だそうです。226事件で殺害された渡辺氏。今回の見学では氏の名をいたるところで見たようなきがします。「常磐公園」の「盤」を「磐」と間違えて誰も指摘できなかった、という逸話がヒソヒソ語られている師団長は渡辺氏だったのですね。寄贈は旭川出身の元防衛副大臣今津代議士の事務所だそうです。ご自身の肝いりでできた施設ですから、思い入れもあるのでしょう。

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このスライドは開館当初からあったものですが、あらためて全画面を写真におさめてきました。北鎮記念館2階メイン展示の冒頭は北海道の歴史から始まるのですが、完全な「屯田兵史観」なんですよ。明治から「永山」と名づけられた場所などにずっと暮らしていたアイヌの人々のことはほぼ無視。「国見の図」にて永山武四郎らが「従えて」いるアイヌが描かれているくらいです(他には、もっと後の展示に樺太アイヌについてのものが一点)。

そしてこのスライドを読む限り、当時の天皇制軍隊がかなり強引に場所を確定し地権者80名を「軟禁」もしかすれば「恫喝」し、天皇の「権威」を背景に売却させているかのように受け止められます。

P9230024

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レルヒ中佐のスキー伝来コーナーのところに陸上自衛隊の現在使用しているスキーコーナーができていました。

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昭和天皇を迎えての「北海道大演習」コーナーに、当時の記念写真集にあったという3D立体画像の地図。平塚館長は「当時に3Dが使われていたのは画期的」と絶賛されていました。

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これはぜひ見たかったのですよ。以前北海道新聞でも紹介された事例で、北海道教育大学旭川校(旧旭川師範)の敷地から工事中に旧軍のものと思われる武器類が大量に出てきたのです。

平塚館長によれば「軍事教練で使っていたもので、ほとんどが模造の練習用ですが、なかには本物もありました」とのこと。終戦時、「後難を恐れ」(平塚氏)て焼かれた上に地中埋められていたそうです。かなりの点数が出土したそうです。

師範学校で軍事教練をせねばならない情勢を、再び生み出してはならない。そう決意が新たになります。なお北鎮記念館の展示では旭川商業高校(旧市立商業学校)でも軍事教練が行われていたそうですし、高校以上はすべて、中学校でも行われていたとのことです。

P9230040

P9230039 

これは加藤建夫隼戦闘隊長のコーナーに新設された機銃。実際に隼戦闘機に搭載されていたものらしいです。

このコーナーである参加者の男性が「日本の物量はすでに負けていたんだ。防寒対策など何もしてなかったゼロ戦は飛行服を着込まないと寒くてダメだった。でもアメリカ軍機はTシャツでもよかったらしい。その時点で決まってた」と話してくれました。またこの男性は展示している戦闘機の模型が違う型番表示になっていることを指摘していました。

P9230047

旭川は歴史的に酒蔵が多かった土地です。これを紹介しているコーナー。旭川の民俗を紹介するという観点とともに、実は酒造メーカーと言うのは神社・靖国神社とつながりが深いのですが、それはまた別の機会に。

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これは戦後台湾で書かれた寄せ書き。だからと思いますが同館で展示されている戦時中の寄せ書き日の丸と比べ、書かれている言葉が全然違います。

第七師団から分離独立してつくられた師団・部隊等の一覧表があるのですが、これを見ていたときに参加していたおじいさんが傘で第147師団(だったと思いますが)のところを示し、「おれはここにいたんだよ」とおっしゃる。詳しく聞いたら、第七師団第27連隊に入隊し、第147師団に移動となり、千葉で終戦を迎えられたそうです。

これまで沖縄戦に参加した24師団や89連隊について「七師団と関わり無いので展示していない」と説明を受けてきたのですが、このおじいさんも「分かれてしまえば関わり無い。別の師団だ」とおっしゃっていました。機構としてはそうなんでしょうね。同時に北鎮記念館が旭川ゆかりの記録を残していこうというなら、七師団から分かれた部隊や兵士達がどうなったのかについても追跡すべきではないのか?と思います。

北鎮記念館についてはここまでとします。次回、第2回で遺構めぐりについてご紹介します。ここでもなかなか興味深い発見がありました。

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2008年4月23日 (水)

旧「第七師団転地療養所」について

先日、北鎮記念館を見学した際に「226事件」コーナーのところで旧「第七師団転地療養所」について初めて知りました。

P4160024

それは上川町層雲峡にあったもので、戦後は昭和22年6月以後、旭川赤十字病院附属層雲峡診療所として診療していたそうですが現在は廃院になっていると聞きました。見学の際、同行して解説していた平塚館長によれば「誰でも見に行けます。(場所は)すぐわかりますよ」ということでしたので、層雲峡に出かける用事のついでに行ってみました。

この建物の敷地内に記念碑があり、「226事件」コーナー展示物の説明ではそれは「旭川-層雲峡道路開通記念碑」だとありますが、私が実際に現地に行き、碑文全てではないもののざっと見た印象では「第七師団転地療養所建設記念碑」ではないか、と思います。実際に武田泉著「書評『知られざる大雪山の画家・村田丹下-北海道から東京、故郷岩手へ、その足跡を探る』」(北海道教育大学大雪山自然教育研究施設研究報告第38号、平成16年3月)によれば「転地療養所建設記念碑等」の言葉があります。前述の展示物には記念碑の建設が「昭和3年6月21日」とありますので、後に述べますが療養所の建設と同時に建立されたものと思われます。

P4160025 ■北鎮記念館の展示物

P4190030 ■記念碑全体像

P4190031 ■碑文冒頭

その碑文のなかに226事件で殺害された陸軍教育総監・渡辺錠太郎氏(碑文では師団長)と青年将校らの背後にいる人物として逮捕・起訴され禁固5年の判決をうけた斎藤瀏氏(碑文では参謀長)の名が一緒に記されている石碑だとして、一つの歴史的存在であるといえます。

P4190032copy ■渡辺錠太郎氏の名

P4190033copy ■斎藤参謀長の記述

場所は層雲峡温泉街の少し奥のほう、ロープウェー駅の前を左折し坂道を登り、右手にホテル大雪、左手に朝陽亭をみてさらに行くと左手に層雲峡YH。その道をさらに道なりにすすめば突き当たりに建物があります。これが廃止され使われていない旧旭川赤十字病院附属層雲峡診療所(分院、との記載がある文献もあり)です。記念碑は木の陰にあってわかりにくかったですが、少し高いところに建っていました。

P4190035 ■旧層雲峡診療所

この診療所の歴史ですが、建てられたのは1928(昭和3)年だそうで、当時旭川区会議員、旭川商工会議所会頭などを歴任しており、温泉旅館「層雲閣」(現在の層雲閣グランドホテル)の経営者「荒井組」の荒井初一氏が「第七師団転地療養所」として私費で建設し師団に寄付したのだそうです(荒井建設ウェブサイト「沿革」)。これは前述武田泉氏の書評によれば興味深い逸話があるらしく、荒井初一氏が当の斎藤瀏師団大隊長(当時)と交渉し療養所建設費用の寄付を申し出たのですが、それは「陸軍用地から温泉の余り湯を分与して荒井の層雲閣に引湯する」(武田書評)ための交換条件だったというのです。「私費で診療所を寄付」といえば聞こえがよいですが、結局は軍部の利権に擦り寄る財界人だったといえます。

荒井初一氏は層雲峡道路12キロも自費で開設し紺綬褒章をうけているとか。荒井初一氏の功績全体については論評する立場にありませんが、大雪山研究の功績等はそれが経済活動とリンクしていようと現在に残る価値があったことは否定できません。余談ながら、荒井組→荒井合名会社から改組変更された現在の荒井建設の社長・荒井保明氏は、2007年6月22日に開かれた自民党旭川支部定期大会で支部長代行に選出されています。軍と政権党・財界の関係は戦前も、いまも変わらないということでしょうか。

余談ついでですが書評を書かれた武田泉氏は文中荒井氏の軍とのつながりを踏まえ、「『北鎮』旭川の今も変わらぬ『軍都』としての存在」を指摘されている。その現在の例として第一次イラク派兵の「編成完結式」(隊旗授与式)や「黄色いハンカチ」、「旭川冬祭り」への自衛隊の参加などを指摘し、「国防との関係」について指摘しています。そして戦前の自然保護(国立公園策定)が「自然=国粋主義」の立場から国威発揚に利用された側面を指摘。「阿蘇国立公園指定の立役者」が「朝鮮王妃暗殺事件に連座していた」ことや荒井氏の事例などを関連付けています。これは興味深い指摘であるといえます。そうだとすれば荒井氏の「大雪山研究」も国粋的な意図があったのかもしれません。

ちなみに旭川赤十字病院の附属診療所になったのが先ほども紹介したように昭和22年6月。その後、昭和50年5月に増改築工事が竣工しています(上川町の「上川の歴史」では「昭和50年6月2日旭川赤十字病院層雲峡分院完成」との記載があります)。旭川赤十字病院の「病院だより」第36号(平成11年発行)には「層雲峡診療所閉鎖は納得できない」旨の投書があり、病院側は「上川町とも合意の上のこと」と回答していることからも、その頃のことと思います。旭川赤十字病院で長く看護師として勤め、全日赤労組の活動もされていた某氏にも聞いたのですが「わからない(正確には覚えてない)。調べてみる」とのことでしたので、続報を待ちたいと思います。

さて、記念碑の位置づけについても、碑文の全文についても、今後調べをすすめて事実関係を明らかにしたいと思います。また「第七師団転地療養所」のことについても詳しく知りたいと思います。北鎮記念館が詳しい資料を公開してくれないか、と思ったりして。

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2007年7月14日 (土)

〈アーカイブ〉旧陸軍第七師団「軍用水道」

●〈アーカイブ〉の新設について

旧サイトのうち、改めてブログにて紹介すべき記事を再録します。基本的にはそのまま転載しますが、一部手を加える場合もあります。

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2004年7月27日、知人のジャーナリストA氏から電話あり。A氏いわく、「いま戦争遺跡の取材をしていて、春光台の『軍用水道』を見に行くんだけど、戦前から春光近辺に住んでいる方にお話を聞きたいので紹介してもらえないか」とのこと。「えっ?『軍用水道』?初めて聞いた。面白そうだね。一緒に行っていいかい?」とすぐにお願いして取材に同行させてもらいました。翌28日、A氏、歴史教育者協議会のB先生(元高校教諭)とともに旭川市水道局石狩川浄水場(末広東)を訪ね、「軍用水道」について詳しく聞きました。

P7280001

【1997年掲載、道新夕刊の記事】

旭川市に市民を対象とした「水道」が引かれたのは戦後のこと。それまで市民は井戸水などで暮らしていたそうです。明治までは軍隊も同じでしたが、チフス(伝染病)が発生した事件を機に旧第7師団と軍人住宅のみ対象とした「軍用水道」を建設することを決意。明治43年4月に起工し、大正2年3月に完成しました。総工費は当時約44万円。現在の価格に換算すると約90億円にものぼる大工事でした。

P7280007

【写真①水道木管:石狩川浄水場展示品】

この水道は石狩川から取水して勾配を利用して現在の旭川市春光地区(旧4区)まで木管(写真①)で水を流します。ちなみにこの木管はいまだに地中に埋まっていて、土木工事をすると出てくるそうです。木管は陸上自衛隊旭川駐屯地内の「北鎮記念館」にも一部展示されています。

P7280008

【写真②覆蓋付緩速ろ過池】

P7280026

【写真③盛り土の上部分:突起は空気穴】

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【写真④盛り土脇の説明看板】

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【写真⑤水の無いときの内部構造】

さて旧4区まで到着した水はポンプを使って春光台にあげられます。そこで登場するのが今回紹介する「覆蓋付緩速ろ過池(ふくがいつきかんそくろかち)」です。「覆蓋」とは「天井」「おおい」のこと。なぜ「覆蓋」がついているか?には「軍用だから毒物や最近の投入防止のため」などの説を提示するサイトもありますが、実際にはそういう側面の検討もあったかもしれませんが主たる理由は対寒構造的な問題だと写真④の案内看板に示されています。写真③のように空気穴が開いていることからも対寒構造という説明が筋が通ってます。

「緩速ろ過池」とは砂利などを利用してゆっくりろ過をする池のこと。自然界が地下で行っている浄化作用を人為的に作り出そう、というわけです。写真②の奥側、盛り土された内部にレンガ造りの施設が埋設されています。写真⑤は掃除のときに撮影した内部の姿です。素晴らしいアーチ型にレンガが組まれています。ここに現在、「旭川市水道局春光台配水場」として春光台地域に配水されている飲料水が蓄えられています。いまは「ろ過」はしていません。「ろ過」は浄水場で行い、「配水池」の役割だけです。

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【写真⑥配水場の門:春光台公園側から】

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【写真⑦水神:配水場の片隅に祭られていました】

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【写真⑧軍用水道碑:春光台公園内】

明治時代につくった「軍」のみ対象とした水道施設がいまだに使えるというのは、いかに軍事には予算を使っていたかの現われです。実際、水は軍事の要であり、旧4区に立っていたポンプ場は爆撃があっても破壊されないように分厚いコンクリートで覆われていたそうです。自衛隊の給水部隊も補給の要であり、だからこそ「人道復興支援」の代表格にされたのかもしれません。

この水道施設は「近代水道百選」にも選ばれているといいますが、市民にはあまり知られていないように思います。ぜひ、歴史の証言者・文化財として保存して欲しいと思います。

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