戦争遺跡・戦争の記憶

2008年4月23日 (水)

旧「第七師団転地療養所」について

先日、北鎮記念館を見学した際に「226事件」コーナーのところで旧「第七師団転地療養所」について初めて知りました。

P4160024

それは上川町層雲峡にあったもので、戦後は昭和22年6月以後、旭川赤十字病院附属層雲峡診療所として診療していたそうですが現在は廃院になっていると聞きました。見学の際、同行して解説していた平塚館長によれば「誰でも見に行けます。(場所は)すぐわかりますよ」ということでしたので、層雲峡に出かける用事のついでに行ってみました。

この建物の敷地内に記念碑があり、「226事件」コーナー展示物の説明ではそれは「旭川-層雲峡道路開通記念碑」だとありますが、私が実際に現地に行き、碑文全てではないもののざっと見た印象では「第七師団転地療養所建設記念碑」ではないか、と思います。実際に武田泉著「書評『知られざる大雪山の画家・村田丹下-北海道から東京、故郷岩手へ、その足跡を探る』」(北海道教育大学大雪山自然教育研究施設研究報告第38号、平成16年3月)によれば「転地療養所建設記念碑等」の言葉があります。前述の展示物には記念碑の建設が「昭和3年6月21日」とありますので、後に述べますが療養所の建設と同時に建立されたものと思われます。

P4160025 ■北鎮記念館の展示物

P4190030 ■記念碑全体像

P4190031 ■碑文冒頭

その碑文のなかに226事件で殺害された陸軍教育総監・渡辺錠太郎氏(碑文では師団長)と青年将校らの背後にいる人物として逮捕・起訴され禁固5年の判決をうけた斎藤瀏氏(碑文では参謀長)の名が一緒に記されている石碑だとして、一つの歴史的存在であるといえます。

P4190032copy ■渡辺錠太郎氏の名

P4190033copy ■斎藤参謀長の記述

場所は層雲峡温泉街の少し奥のほう、ロープウェー駅の前を左折し坂道を登り、右手にホテル大雪、左手に朝陽亭をみてさらに行くと左手に層雲峡YH。その道をさらに道なりにすすめば突き当たりに建物があります。これが廃止され使われていない旧旭川赤十字病院附属層雲峡診療所(分院、との記載がある文献もあり)です。記念碑は木の陰にあってわかりにくかったですが、少し高いところに建っていました。

P4190035 ■旧層雲峡診療所

この診療所の歴史ですが、建てられたのは1928(昭和3)年だそうで、当時旭川区会議員、旭川商工会議所会頭などを歴任しており、温泉旅館「層雲閣」(現在の層雲閣グランドホテル)の経営者「荒井組」の荒井初一氏が「第七師団転地療養所」として私費で建設し師団に寄付したのだそうです(荒井建設ウェブサイト「沿革」)。これは前述武田泉氏の書評によれば興味深い逸話があるらしく、荒井初一氏が当の斎藤瀏師団大隊長(当時)と交渉し療養所建設費用の寄付を申し出たのですが、それは「陸軍用地から温泉の余り湯を分与して荒井の層雲閣に引湯する」(武田書評)ための交換条件だったというのです。「私費で診療所を寄付」といえば聞こえがよいですが、結局は軍部の利権に擦り寄る財界人だったといえます。

荒井初一氏は層雲峡道路12キロも自費で開設し紺綬褒章をうけているとか。荒井初一氏の功績全体については論評する立場にありませんが、大雪山研究の功績等はそれが経済活動とリンクしていようと現在に残る価値があったことは否定できません。余談ながら、荒井組→荒井合名会社から改組変更された現在の荒井建設の社長・荒井保明氏は、2007年6月22日に開かれた自民党旭川支部定期大会で支部長代行に選出されています。軍と政権党・財界の関係は戦前も、いまも変わらないということでしょうか。

余談ついでですが書評を書かれた武田泉氏は文中荒井氏の軍とのつながりを踏まえ、「『北鎮』旭川の今も変わらぬ『軍都』としての存在」を指摘されている。その現在の例として第一次イラク派兵の「編成完結式」(隊旗授与式)や「黄色いハンカチ」、「旭川冬祭り」への自衛隊の参加などを指摘し、「国防との関係」について指摘しています。そして戦前の自然保護(国立公園策定)が「自然=国粋主義」の立場から国威発揚に利用された側面を指摘。「阿蘇国立公園指定の立役者」が「朝鮮王妃暗殺事件に連座していた」ことや荒井氏の事例などを関連付けています。これは興味深い指摘であるといえます。そうだとすれば荒井氏の「大雪山研究」も国粋的な意図があったのかもしれません。

ちなみに旭川赤十字病院の附属診療所になったのが先ほども紹介したように昭和22年6月。その後、昭和50年5月に増改築工事が竣工しています(上川町の「上川の歴史」では「昭和50年6月2日旭川赤十字病院層雲峡分院完成」との記載があります)。旭川赤十字病院の「病院だより」第36号(平成11年発行)には「層雲峡診療所閉鎖は納得できない」旨の投書があり、病院側は「上川町とも合意の上のこと」と回答していることからも、その頃のことと思います。旭川赤十字病院で長く看護師として勤め、全日赤労組の活動もされていた某氏にも聞いたのですが「わからない(正確には覚えてない)。調べてみる」とのことでしたので、続報を待ちたいと思います。

さて、記念碑の位置づけについても、碑文の全文についても、今後調べをすすめて事実関係を明らかにしたいと思います。また「第七師団転地療養所」のことについても詳しく知りたいと思います。北鎮記念館が詳しい資料を公開してくれないか、と思ったりして。

にほんブログ村 平和

知られざる大雪山の画家・村田丹下 北海道から東京、故郷岩手へ、その足跡を辿る 知られざる大雪山の画家・村田丹下 北海道から東京、故郷岩手へ、その足跡を辿る
販売元:セブンアンドワイ ヤフー店
セブンアンドワイ ヤフー店で詳細を確認する

昭和維新の朝―二・二六事件と軍師斎藤瀏 昭和維新の朝―二・二六事件と軍師斎藤瀏

著者:工藤 美代子
販売元:日本経済新聞出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

斎藤史―不死鳥の歌人

著者:山名 康郎
販売元:東京四季出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2007年7月14日 (土)

〈アーカイブ〉旧陸軍第七師団「軍用水道」

●〈アーカイブ〉の新設について

旧サイトのうち、改めてブログにて紹介すべき記事を再録します。基本的にはそのまま転載しますが、一部手を加える場合もあります。

----------

2004年7月27日、知人のジャーナリストA氏から電話あり。A氏いわく、「いま戦争遺跡の取材をしていて、春光台の『軍用水道』を見に行くんだけど、戦前から春光近辺に住んでいる方にお話を聞きたいので紹介してもらえないか」とのこと。「えっ?『軍用水道』?初めて聞いた。面白そうだね。一緒に行っていいかい?」とすぐにお願いして取材に同行させてもらいました。翌28日、A氏、歴史教育者協議会のB先生(元高校教諭)とともに旭川市水道局石狩川浄水場(末広東)を訪ね、「軍用水道」について詳しく聞きました。

P7280001

【1997年掲載、道新夕刊の記事】

旭川市に市民を対象とした「水道」が引かれたのは戦後のこと。それまで市民は井戸水などで暮らしていたそうです。明治までは軍隊も同じでしたが、チフス(伝染病)が発生した事件を機に旧第7師団と軍人住宅のみ対象とした「軍用水道」を建設することを決意。明治43年4月に起工し、大正2年3月に完成しました。総工費は当時約44万円。現在の価格に換算すると約90億円にものぼる大工事でした。

P7280007

【写真①水道木管:石狩川浄水場展示品】

この水道は石狩川から取水して勾配を利用して現在の旭川市春光地区(旧4区)まで木管(写真①)で水を流します。ちなみにこの木管はいまだに地中に埋まっていて、土木工事をすると出てくるそうです。木管は陸上自衛隊旭川駐屯地内の「北鎮記念館」にも一部展示されています。

P7280008

【写真②覆蓋付緩速ろ過池】

P7280026

【写真③盛り土の上部分:突起は空気穴】

P7280027

【写真④盛り土脇の説明看板】

P7280002

【写真⑤水の無いときの内部構造】

さて旧4区まで到着した水はポンプを使って春光台にあげられます。そこで登場するのが今回紹介する「覆蓋付緩速ろ過池(ふくがいつきかんそくろかち)」です。「覆蓋」とは「天井」「おおい」のこと。なぜ「覆蓋」がついているか?には「軍用だから毒物や最近の投入防止のため」などの説を提示するサイトもありますが、実際にはそういう側面の検討もあったかもしれませんが主たる理由は対寒構造的な問題だと写真④の案内看板に示されています。写真③のように空気穴が開いていることからも対寒構造という説明が筋が通ってます。

「緩速ろ過池」とは砂利などを利用してゆっくりろ過をする池のこと。自然界が地下で行っている浄化作用を人為的に作り出そう、というわけです。写真②の奥側、盛り土された内部にレンガ造りの施設が埋設されています。写真⑤は掃除のときに撮影した内部の姿です。素晴らしいアーチ型にレンガが組まれています。ここに現在、「旭川市水道局春光台配水場」として春光台地域に配水されている飲料水が蓄えられています。いまは「ろ過」はしていません。「ろ過」は浄水場で行い、「配水池」の役割だけです。

P7280011

【写真⑥配水場の門:春光台公園側から】

P7280012

【写真⑦水神:配水場の片隅に祭られていました】

P7280010

【写真⑧軍用水道碑:春光台公園内】

明治時代につくった「軍」のみ対象とした水道施設がいまだに使えるというのは、いかに軍事には予算を使っていたかの現われです。実際、水は軍事の要であり、旧4区に立っていたポンプ場は爆撃があっても破壊されないように分厚いコンクリートで覆われていたそうです。自衛隊の給水部隊も補給の要であり、だからこそ「人道復興支援」の代表格にされたのかもしれません。

この水道施設は「近代水道百選」にも選ばれているといいますが、市民にはあまり知られていないように思います。ぜひ、歴史の証言者・文化財として保存して欲しいと思います。

| | コメント (0)